定義づけする意義

なんか色々書こうと思ったけど。


風来のなんでもいい >とりあえあずものすごいことをやってのける上級者とそれを言葉で説明できる人がいて初心者も強くなっていく(破壊光線)(02/23(月) 00:13)
が全てですね。


今日は猫の日
にゃーにゃーにゃー

なんか色々書いた分

風来さんの一言で説明されちゃっていますが、消すのもあれなので(笑


流し回数について、青菜さんが理論化しました。
これは、はまさんの言葉で言うなら
「相手よりも早く流し回数が0回になる側が負けてしまう」ということを
体系的に説明し、バトルを理論的に説明しようとしたのだと思います。


でも、一方で「流し」という概念に関しては
きっとこの理論を読まなくても多くの人が知っていると思います。
例えば、「流し回数」という言葉は知らなくても
シャワーズはガラガラの地震で2発で倒れてしまうから、一度しかガラガラに後出し出来ない」
ということは多くの人が理解しています。
同様に、シャワーズがガラガラの前に後出し出来なくなったら負けるということも
多くの人が理解しているのでは無いでしょうか。


それなら、理論化し、言語化することに意味はあるのかな?
と思う人も居ると思います。


むかしむかし、メルロ=ポンティさんはこう言いました。


「枯れ木」について、最初に見た時は、「枯れ木」という存在を眼で見ることで名前のない「現象」としては知ることができるが、
「枯れ木」という言葉(記号)を知って初めて、恒常的に認識出来るようになる。
これは、それまで現象として見てきた「枯れ木」というものが、
言葉(記号)を知ることで同一言語下では共通した認識を得られるということである。
私はこの共通した認識を得られること、がとても大切だと思うんですよね。
「流し」という概念も同じだと思います。
名前が付いていないときは「流し」という概念は知っていてみんな理解していたんだけれど
でも、そこに「流し」という名前が無かったから「流し」を考える時に毎回具体的に考えなくてはいけなかった。
もうちょっと簡単に言うと「流し回数」という言葉を知らないから
毎回パルシェンはガラガラに二度まで出せて〜という具体的な部分で考えることしか出来ないわけですね。
けれど、ここに「流し回数」という記号を与えることで、抽象的に思考をすることが出来るようになります。
常に具体的なレベルまで考えを落さなくても「流し」という概念を恒常的に考えられるようになりました。
「枯れ木」の例で言うなら、「枯れ木」を見なくても「枯れ木」という言葉を頭に思い浮かべるだけで
頭の中で「枯れ木」を想像することが出来る、というわけです。


また、概念を言語という記号で表せたことで、伝達が簡単になります。
「枯れ木」という言葉が無い時は実際に「枯れ木」の前に行かないと
「枯れ木」についての話をすることは出来ないですよね。当たり前ですけど(笑
それと同じように「流し」という概念を知らない人に「流し」という概念を説明する時
理論的に名前が無いと伝え難いですよね。
また「流し」という概念をお互いに理解している人同士でも
「流し」について話す時に定義と名前がお互いの間で違うと意思の伝達が難しいです。
特に名前が無いと、具体的な例の中でしかお互いの考えを交換することが出来ません。


そういう意味で、同じ物事について多くの人の間で考える時に
その概念に定義と名前を与え、そこで起きている現象を理論的に説明することは
とても意味があることなんじゃないかな、と思うわけです。
特に、考えの交換、伝達が簡単になるというのは大きいですよね。
一つの集団の中で、考え方や方法がそれぞれ違うのは当たり前です。
でも、その集団の中でお互いが切磋琢磨していくためには
その考え方や方法の交換が必要だと私は思うんですよね。
集団全体の質についても同じだと思います。
より多くの人がいて、多くの考え方があるのは確かに大切ですけれど
もっと大切なのは、その多くの考え方がより多くの人の間で共通して認識されていることだと思います。
裾野は広く大きな方が良いとは思うのですが
裾野の端まで見えなければ広い意味はあまり無いのではないかなーとそう思いました。
そんな意味で、遠くの裾野まで見ることの出来る理論という望遠鏡があると良いですよね。


長い上にワカリニクイ文章になっちゃいました><
風来さんはすごい(笑